satoshiabe.jp : PROFILE
PROFILE
Updated : 2007/03/06
Created : 2005/11/26
名前
阿部 里志 ( あべ さとし )
写真
学歴
岩手県立 宮古高等学校 普通科 卒業
国立 岐阜大学 教育学部 理科教育講座 卒業
資格
1997/11 : 普通自動車第一種
199?/?? : 危険物取扱乙四種
2001/03 : 小学校教諭第一種
2005/02 : Linux Professional Institute Certification Level 1
2005/04 : Linux Professional Institute Certification Level 2
2006/08 : SJC-A
生まれと性別と名前の由来
1978 年 9 月 15 日、岩手県の片田舎に生まれた。 性別は男。 たいてい「里志」という漢字を一発で変換できない。 「古里を忘れずに」という思いで名づけられたらしいが、全く逆 ( 後述 ) の性格へ。
小学生のころ
小学校の 4 年から 6 年まで野球に没頭していた。 当時、大好きだったチームは読売ジャイアンツだった。 桑田、斉藤、牧原の 3 本柱で投手王国を築いていた、と記憶している。 ピッチャーになりたい、という本人の希望とは異なり、なぜかキャチャーとしてプレイ。 上級生が去り、自分たちがメインのチームとなると、クリーンアップを打つようになるが、波のある打者だった。 5 年生のとき肺炎にかかり、唯一の入院生活を経験した。 風邪で就学旅行を欠席したはず。
中学生のころ
中学へ進学する少し前、少年ジャンプの「スラムダンク」がはじまった。 すさまじく影響され、周囲の予想に反し、中学ではバスケットボール部に入部。 毎日、欠かさず部活動に参加していたが、部集会にて担当の教師 ( 「ケンシロウ」と呼ばれていた ) から存在を忘れられるという出来事があり、怒りより急激にモチベーションが高まった。 後にレギュラーとなるが、弱小チームのため、最後の試合も惨敗。 不完全燃焼の 3 年間が終った。
高校生のころ
中学校ではそこそこの成績だった勉強は、その場かぎりの勉強法で、基礎学力がまったく定着していなかった。 かなりギリギリで高校へ進学。 その地域で最も強い高校で、再びバスケットボールに熱中することに。 このころから、本格的に「その場かぎり」の勉強が癖となりはじめたと思う。 一生後悔することになるかもしれない、「数学嫌い」になる。
身長は 180 cm そこそこだった。 バスケットボールにおいて、この身長は高くない。 小さなチームだったので、いわゆるラン&ガンなチームだった。 5 番だったポジションは、1 つ下の学年の 185 cm くらい?の人をスタメンにしたため、4 番へ。 たしか、アベレージは 16 点/試合、ほどだったはず。 体が細いため、パワープレーで力負けすることもたびたびあったが、インサイドでゴリゴリ攻めていた。 パワープレイヤー相手に不意打ちカットイン、鬼フェイクで攻めるのも好きだった。 よく覚えていないが、何かの大会で、能代と対戦したことがあった。予想どおりボロ負けしたが、貴重な体験だった。 最後の試合は、麻生一関に敗れ、県大会 3 位で終了。 部の歴史の中で、最も良い結果を残すことができたはず。 試合終了の挨拶を終えベンチに戻った際、実感がなかったところで先輩に背中を叩かれつつ「おつかれ」と言われたことで最後の試合であることを実感し、涙を流した記憶がある。 その後、勉強に集中するためバスケットから完全に離れるが、これまでの「その場かぎり」の勉強法がたたり、最後まで全く成績をのばせなかった。 しかし、大穴狙いでチャレンジした試験をパスし、晴れて大学生となることに決定。 岐阜大学の教育学部へ進学することに。
正直なところ、地元を好きになれなかったし、今でも好きではない。 確かに自然は豊かだ。しかし、それだけなのだ。 何事においても選択肢が少な過ぎた。 閉鎖的な雰囲気も好きになれなかった。 それらから解放される期待から胸が踊った。
大学生のころ
親元を離れ、異国の地のような雰囲気の地域で生活をはじめた。 いわゆる「なまり」の嫌いだった自分は、高校生のときからできるだけ標準的な言葉を話すように心がけていた。 が、まだ放言を話していたらしく、しばしば恥をかいたこともあった。 大学生活は、両親を裏切るが如く、全く勉強しなかった。 多くの貴重な時間を無駄に過ごしてしまったと後悔している。
1 回生のときに必須科目だった「情報教育」で「作成したファイルをフロッピーに保存する」という意味を理解できなかった自分だったが、徐々にパソコンに興味をもちはじめていた。 当時、デスクトップパソコンの価格が徐々に低下しはじめていて、4 回生のときに 15 万円ほどを放出し、CPU : PenIII 866 MHz, MEM : 512 MB, HDD : 30 GB のショップオリジナルの PC をパソコン工房@岐阜店で購入。 いろいろなハードウェアを挿したり抜いたり、Windows のインストールを繰り返していたが、間もなく飽きてしまった。
当時、東海地方に ADSL サービスは存在せず、関東で「東京めたりっく」が 1.5 Mbps の ADSL サービスを開始したことを羨ましく感じていた。 自宅で利用していたネットワーク環境は、ISDN のテレホーダイだった。 自宅のネットワーク環境と異なり、学内ネットワークは、格段にスピードが速かった。 特に夜間。そのため昼夜を逆転した生活をしばらく送ることになった。 学内のネットワークで P2P にはまり、いろいろダウンロードしすぎて大学のネットワーク管理者が乗り込んできたこともあった。 オンラインゲームのタイピングにハマった。 毎日毎日、早く正確にタイプする練習をしたものだ。
3 回生のとき、教育実習で小学校と中学校へ行った。 生意気な子どもだちは最後に笑って自分を見送ってくれた。 心を閉ざしがちな子どもとも理解しあえる関係を築けることに感動し、教職を魅力的な職業と認識するようになったが、あの純粋な目をした子どもたちに、努力をしてこなかった自分は適切だろうか?と考え、違う道を歩もう決意した。
最終学年、なんとか卒業論文を提出し、無理矢理パス。 この時期になっても自分がやりたいことを見つけられていなかったため、大学院へ進学するか迷っていたが、悩んだ結果「ここは自分の場所ではない」と悟り、最も興味のあるコンピュータ業界へ飛び込むことに決定。 そのとき、既に 2 月だった。1 か月弱で就職と引っ越しを決定しなければならなかったため、まともに寝る時間を確保できない日々がしばらく続いた。
社会人
社会人 1 日目、横浜駅から乗車した東海道線が川崎駅を前にして人身事故で 60 分ほど停車。 1 か月ほど激しく動き回っていたので完全に体調が狂っていた。 停車中の車内があまりにも暑くついに倒れてしまい、満員電車がトラウマに。
ユーザサポート部門で 4 年ほど業務。 周囲の人間とスキルの差が大きくなりつつあることを感じ焦ったが、具体的に何をすれば良いのかわからず、無駄な書籍や雑誌を購入しては捨てることが多くなっていた。 4 年目の秋、GNU/Linux に興味をもちはじめていた自分は、久々に購入した PC - IBM/ThinkPad T41 - において Windows を 1 度も起動することなく、Vine Linux をフルインストール。 このころの ThinkPad は、再インストール用の CD が附属せず、その CD の内容が HDD に格納されているため、HDD をフォーマットすると、もう Windows を起動できなくなってしまうのだ。 やるならどっぷりやりたい、ということで実行。 このことで完全に Windows をリプレースすることに成功した。 その後、もっと正確な知識を身につけたい、という目標から、4 か月かかるも地味に LPI Level1 / Level2 を取得。 5 年目の 4 月からシステムを運用する部門へ異動した。 GNU/Linux や FreeBSD で構築されていたシステムをさわるようになり、毎日が新鮮だった。
ある日、テキスト処理をする仕事を任された。 とても手で対応できる量ではなかったため、スクリプト作成が必須だった。 プログラミングできる人から「Perl でやれば」と言われたが、プログラミグしたことのない自分がいきなり Perl でスクリプトを作成することは不可能に思えた。 そこで、shell でスクリプトを作成することに。 やっとのことで完成させたとき、純粋なプログラミング言語ではなかったものの、プログラミングすること自体に興味を覚えた。 ログの調査など、スクリプトを作成する機会は多いが、対応できる人が限られていたこともモチベーションを更に高めた。 その後、数か月 shell でプログラミングすることに没頭。 エラーを吐いているときはため息ばかりでるが、作成したオリジナルのプログラムが正常に動作したときの快感を何と表現したらよいだろうか。 shell で厳しい作業を対応するために、sed や AWK も勉強しつつ、徐々に Perl も勉強した。
プログラミングをすればするほど、奥深さに気づき、また、インターネット上の先輩プログラマが雲の上のような存在に思えた。 業務でプログラミングを経験したい、と思ったが、当時の会社で希望する業務をできないと気づいた。 また、もっとオープンソースの技術にふれられる職場で仕事をしたい、と強く思い、ついに 5.5 年も勤めた現場(その間に会社を 2 回かわった)から脱出。 幸いにも、自分が尊敬するプログラマが働いている会社で雇ってもらうことになった。
とりあえずのまとめ
プログラミングは奥深い。 簡単でもない。 これまで自分は「単に利用するだけ」だった。 プログラミングすることにより、「何かをつくりだせる(かも)」という可能性が存在することに魅力を感じている。 普段、Linux 系 distribution を使用しているが、OSS は、ひとつひとつのツールが奥深い。 Windows を使用していたら、これほどまでに興味深いツールが存在するのか、知らないままだったろう。 本当はゆっくり覚えたいところではあるが、仕事もあるため、腰を据えて勉強していられないことを残念に感じている。 最近の趣味はプログラミング。と言いたいが、また駆け出したばかり。 いつかカーネルのソースコードを読んでみたい、という非常に無謀な目標をかかげ、時間を確保しては書籍とコードに目を通し、自分の知識のなさを痛感する日々を送っている。 英語をできないことを悔やむことが多くなってきた今日このごろ。